2020/08/11|先生Interview
みなさん、こんにちは!Selan広報担当のHanaです!
今回も、前回の記事に引き続きお迎えシスターで実際に働くメンバー・先生それぞれのバイリンガルストーリーをご紹介していきたいと思います。
さて、今回のトピックは ”言語教育者になる夢のきっかけになった幼少期の南米での経験とは?”です!
現在国際基督教大学に通っており、日本で育ち、小学生の時アメリカと南アメリカを転々とされたSelanで働くLilac先生にお話を伺いました!
幼稚園は東京の区立、小中学は箱根の公立校で、高校、大学と私立に通っています。
教育はほとんど日本で受けていますが、父がアメリカ人のため小学校の夏休みと春休みは祖父母に会うためにアメリカに帰ると2、3週間現地の学校に短期で通っていました。
また、父の仕事の関係で小学4年の夏から1年間は日本を離れてアメリカを拠点とし、南アメリカの国を転々としていました。
その為その1年間は毎年夏に通っていた現地の学校に行ったり、アメリカにいない時はホームスクーリングで学んでいました。
アメリカの現地校は普通の公立校だったのですが、日本の学校とはまるで雰囲気が違い、非常に興味深かったです。
アメリカの現地校ではおやつの時間があったり、みんなピアスをしていたり髪をいろんな色に染めたりしていてとっても自由な雰囲気でした!
そんな2つの文化に触れて育った私には、日本の学校の厳しい校則などが理解できず、先生に直接校則について異議を唱えたこともありました(笑)
そして、アメリカの現地校では様々な人種、異なるバックグラウンドを持つ生徒が多くいました。
私は日本に住んでいると、”ハーフ”という見られ方をされることが常にありましたが、アメリカではそのようなこともなかったです。
また、現地校を経験して、色んな文化に触れることで、自分の中の好奇心を追求することを学びました!
父の仕事の都合で小学校4年生から5年生までアメリカに1年間移住したのですが、その間アメリカを拠点として南アメリカを転々としていました。
その期間は定住をしておらず、クルーズ船に乗って南アメリカの国々を移動していたときもあったためホームスクーリングを通して勉強していました。
日本学校の教科書の勉強は母に教わりながら、アメリカの現地校のワークブックは父に教えてもらいながら進めました。
時には車の中、ホテルの部屋などでも時間を決めて勉強していました。
クルーズ船には1カ月ほど乗っていたのですが、環境を活かしてイカの解剖などもやりました(笑)
クルーズ船には世界中から子供たちが集まってくるので、たくさんの友人ができましたし、今でも大切な思い出となっています。
父が日本語が話せなかったこともあり、家では英語を使っていたため、特に努力をした記憶はなく自然なインプットだったと思います。
英語と日本語の切り替えには少し苦労したことはありましたが、辛いと思ったことはありませんでした!
しかし、日本で教育を受けていたため、家では全く日本語でテレビは見ず、ディズニーチャンネルなどで常に英語をインプットしていました!
現在大学で言語教育をメジャーで学んでおり、学んだ理論をお迎えシスターの先生をしながら実践しています。
本当に子どもが大好きなので、多くの子どもに色んな世界を見せたいという想いが強くあります。
また、小学生の時に南アメリカを転々とした際、スラム街の子どもたちと出会い、多くのことを考えさせられました。
それ以来私の夢は発展途上国での言語教育に携わることです。
教育系の企業、NGOなどで言語教育のコンテンツ作成をやりたいと思っています。
教育はアイデンティティ形成に大きく影響しますが、そのためには良い教育に出会わなければなりません。
色んな子どもたちが大きな夢を見てほしい、そんな想いでお迎えシスターの先生をやっています!
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さて、今回の「言語教育者になる夢のきっかけになった幼少期の南米での経験とは?」、いかがだったでしょうか。
次回も引き続きお迎えシスターで働く先生たちに次回からどんどんインタビューをしていきたいと思っています!
お楽しみに☺